アラブ首長国連邦で発見された10万年前の人類の石器から分かることと数々の疑問、研究者が解説

Q1考古学的に見て、どうしてそれらの石器が新人によって作られたと分かったのか?

A1古生物学者であるトニー・マークス(tony marks)は、アッセンブリッジ[2]「C」(C群)に属するそれら石器の作り手が、新人だと見分けた方法を説明している。

 「C群を作った人の可能性は二つあります。一つ目に、長い間その土地に住んでおり、また周辺にも似たような石器を残した人々が作っていた場合。また二つ目に、その地域を移動していた人によって作られたものである場合です。C群は12万年前の地層から出ました。アラビア半島南東部の、12万年より以前の地層を見てみると、文字通り何もありません。アラビア半島西部には、Acheulean[3]と呼んでいる物が存在しますが、それは50年前の物であり、今回見つかったものとは40万年もの隔たりがあります。そのため、C群は、アラビア半島の南、もしくは北方や西部から来た人々によって作られただろうと考えられるのです。」

 「同じ旧石器時代に北方から来た集団を比較してみると、彼らはC群に見られるような両面加工がされた石器を、全く生産していませんでした。つまり彼らの技術は異なるものだったのです。そのため彼らは今回の発見とは無関係です。しかし当時の東アフリカに存在した集団は、両面加工以外にも、剣の生産や、放射状に作る技術も持っていました。なので、C群が東アフリカからの人々を起源としていると考えるのが、石器の作成方法からみて、最も妥当なのです。

Q2しかし、ネアンデルタール人のような、他のヒト科の種族がアフリカ大陸から出てきていたとは言えないのだろうか?

A2マークスは、その石器は人類の身体にふさわしいことを差し引いても、石器の作成者としてネアンデルタール人がありえないのだということを、いくつかの論理的な理由から説明している。

 「それはある一般的な見解からみる事が出来ます。もし新人が作っていないとするなら、誰が作ったのでしょうか? ネアンデルタール人が作ったんでしょうか?その頃、12万年前の間氷期[4]の初めには、ネアンデルタール人には、新人かどうかを見分けられる、顔や身体の特徴がかなり表れていました。しかし彼らは、最後の間氷期が始まったときには、主にヨーロッパ大陸にいて、その後、より穏やかな気候である、東へと向かっていったのです。それが、中央アジアから離れたロシア南部の平原である、クリミア半島[5]です。

それから彼らが、東に向かったという証拠は無く、移動したのは、寒くなり始めたOSI4;第四氷期に、過ごしやすい高地からレバノン地方に降りていったのみです。その頃なぜかネアンデルタール人は、気候の穏やかな場所に行かずに、アラビア半島に着くまで、南に向きを変えて、当時、非常に乾いた砂漠だったところを数千kmに渡って行きました。その後、南からふくようになった季節風で偶然暮らしやすくなりましたが。これは非常に説明しがたい行為で、何かもっともな論理に基づいたものではありません。」

Q3見つかった石器が10万年前のものだとすると、なぜ12万5千年前にアフリカ大陸を離れたと言えるのか?

A3アドリアン・パーカー(Adrian Parker)は、人類がアフリカ大陸を離れた時が、昔の気候によりどれだけ限定されているかを説明し、アラビア半島へ移動するのに、約12万5千年前が理想的な時期だったとしている。

 「それには、新人が誕生した東アフリカから見る必要があります。新人誕生は、およそ20万年前でした。20万年前から13万年前までの期間が、地球での氷河期と一致する期間です。氷河期には、北、南半球ともに巨大な氷の板で固まっていたため、海面は下がっていました。氷河期が始まったとき、地球の主な砂漠の分布地域は広がり、そのためサハラや、アラビア砂漠といった地理的な壁によって、新人は東アフリカから動くことを妨げられ、その地域に行動を制限されていました。

  13万年前からは、地球の気候状態が変化し、間氷期へと移っていきました。この時代にはインドにおける季節風が、北方へと向きを変え、アラビア半島へ雨を運んでいました。それにより以前の乾いたアラビア半島の内陸は、大きな湖や川をたたえるサバンナのような風景に変わっていったのです。また間氷期の始まりには紅海の南部の海面は、今日より100メートル以上も低かったのです。アラビア半島の湿った気候、海面がまだ低いことにより、4km以下であっただろう浅い紅海を、人類は渡って行ったのだろうと言えます。」

次に4つ目以降の質問だ。

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